共感はされたいが、共感はしたくない。人は与えられたものしか、与えられない。

「昨日、病院で点滴を受けてきて、めっちゃ痛かった」

と知り合いに内出血した点滴跡を見せられた私が言ったのは、

「まだマシな方じゃないですか?」だった。

 

 

自分でも糞みたいな人間だなと思った。

もちろん、内出血した点滴跡なんて死ぬほど見てきたし

点滴漏れでもしようものなら、それどころの見た目ではない。

だから、「マシな方じゃないですか?」は経験に基づいた本心なのだけど。

 

痛みは誰かと比べるものではない。

その人が痛いと感じたら痛みはそこに存在するし

その痛みに共感することが大事だ、と習ってきた。

金銭が発生する仕事現場では、もちろん、「痛そうですね~。1週間くらいで消えると思いますけど、どうしても痛かったらまた教えてくださいね~」くらいは言える。仕事なら。

 

私が、無駄な共感を好まないのはきっと

小さい頃から共感をされて来なかったからだと思う。

 

転ぶと、「痛くない!」「泣かない!」

何かを感じると、「違う!」「そんなことない!」

 

親のひとこと目は、いつも否定の言葉だった。

人を否定し、卑下しないと気のすまない親だった。

その悪い部分は、洗脳のように私の口癖にもなってしまったのだ。

 

今の私も、幼い頃の私も一番欲しかったのは

優しく寄り添ってくれる「共感」だった。

それなのに、痛みを認められずに生きてきた私は

人の痛みをどうしても認められない人間になった。

 

人は与えられたものしか、与えることができない。

与えられたもの以上の領域に踏み込むには、相当の努力と精神力が必要で

毎日生きていくのに必死な私には、親を越えることが、まだできない。