【カケラ/湊かなえ】

 

★★★

読了。

自分の正しさは、誰かにとっての悪意で

みんな自分の人生を必死に生きているだけなのに

絡み合って傷つけ合う。

 

それが人生というなら

私は早々にリタイアを希望したい。

そんな物語でした。

 

 

20代後半の私が子供を持ちたくない理由

 

私が、子どもを持ちたくない理由

それはとても単純なことで

「人にされて嫌なことは、自分もしない」と教えられてきたから。

 

私は、生まれてから今まで、生きてて楽しいと感じたことはない。

生まれてきて良かったと思ったことはない。

いつも苦痛だった。

はじめて包丁を胸にあてた小学5年生の時、

あの時死んでれば良かったと何度後悔したか分からない。

 

 

「人生は、親の中出しの後始末」

Twitterで出会ったお気に入りの言葉である。(作者不詳)

こう発言した投稿主もきっと、親の環境的・社会的・金銭的な際涯に苦しめられたのではないかと思う。

 

子供が「生きてて良かった」と思うことのできないような育て方しか

できないのなら子供は生むべきではない。

 

私は、人にされて嫌だったことは他の人にはしない。

だから、生まれてきて嫌だった私が新たに人間を作ることは決してない。

 

 

 

 

理想の暮らしを想像し、むせび泣く

 

私の理想の暮らしは、1,2年おきくらいに居住と仕事を転々とすること。

雇用保険社会保険もどうでもいい。

私がどれだけ「「死にたい」」と思わずに生きていけるかが一番大事。

 

どこの職場にも絶対にいる 嫌なヤツ 

無視する寛大さもなければ、戦う余力もない。

だから私は自分を守るために、逃げたい。

 

それなのに、

「どこにでも合わない人はいるよ」

「ずっとそうやって逃げてもなにも変わらないよ」と

我が物顔で御高説垂れる老害がいる。

 

恵まれた人間の想像力の欠如、ほんとに絶望する。

 

 

でも現実は難しくて

私は多分、死ぬまでこの県から身動きできないと思う。

ずっと家にこもってできる仕事もない僻地で

私は今日も、明日に絶望しながら眠りにつくし

明日は、目覚めた瞬間に絶望し

泣きながら仕事に行くんだと思う。

 

あと何冊読めば幸せになれる?

 

私が中学生で、生きづらさに悩み始めたとき

調べて出てくる言葉は

アダルトチルドレン」「自己愛性パーソナリティ障害」くらいしかなかった。

特にアダルトチルドレンは、海外の文献が多かったから

読んでも腑に落ちないこともあった。

 

だから今、「HSP」とか「適応障害」とか「グレーゾーン」とか

生きづらさを認めてくれる色々な言い方があるの、いいなぁって思う。

 

でも、読んで読んで納得して、自分の生きづらさを慰めても

社会に出て、正常な人間と関わった途端に

希死念慮が姿を現すのは、なんでなんだろうね。

 

共感はされたいが、共感はしたくない。人は与えられたものしか、与えられない。

「昨日、病院で点滴を受けてきて、めっちゃ痛かった」

と知り合いに内出血した点滴跡を見せられた私が言ったのは、

「まだマシな方じゃないですか?」だった。

 

 

自分でも糞みたいな人間だなと思った。

もちろん、内出血した点滴跡なんて死ぬほど見てきたし

点滴漏れでもしようものなら、それどころの見た目ではない。

だから、「マシな方じゃないですか?」は経験に基づいた本心なのだけど。

 

痛みは誰かと比べるものではない。

その人が痛いと感じたら痛みはそこに存在するし

その痛みに共感することが大事だ、と習ってきた。

金銭が発生する仕事現場では、もちろん、「痛そうですね~。1週間くらいで消えると思いますけど、どうしても痛かったらまた教えてくださいね~」くらいは言える。仕事なら。

 

私が、無駄な共感を好まないのはきっと

小さい頃から共感をされて来なかったからだと思う。

 

転ぶと、「痛くない!」「泣かない!」

何かを感じると、「違う!」「そんなことない!」

 

親のひとこと目は、いつも否定の言葉だった。

人を否定し、卑下しないと気のすまない親だった。

その悪い部分は、洗脳のように私の口癖にもなってしまったのだ。

 

今の私も、幼い頃の私も一番欲しかったのは

優しく寄り添ってくれる「共感」だった。

それなのに、痛みを認められずに生きてきた私は

人の痛みをどうしても認められない人間になった。

 

人は与えられたものしか、与えることができない。

与えられたもの以上の領域に踏み込むには、相当の努力と精神力が必要で

毎日生きていくのに必死な私には、親を越えることが、まだできない。

 

 

「みんな」の中に自分がいないと思う理由

みんな頑張ってね」「皆さん、おはようございます」

みんなに協力してもらいたい」

 

私は小学校の頃から、漠然と投げかけられる「みんな」という言葉の中に

自分は存在していない、と感じる子供だった。

 

その理由は、明確にあった。

小さい頃、一人っ子でよく大人の話に割って入る子どもだった私に、

「今は、あなたに話してないから」

「〇〇と話してるから、話に入ってこないで」

と再三、怒られていたこと。

そこで、自分が入ってはいけない会話があると学んだこと。

一人っ子で私の周りには、大人しかいないのに。じゃあ、誰と話せばいいのかと不満に思ったりもした。

 

そして、その教訓を心に刻んで生きてきた結果、

「名前を呼ばれて、

まっすぐに自分のほうを見て語られる言葉以外、

私に言っていることではない、私の入る会話ではない」

という認識が消えなくなってしまったのだ。

 

社会に出てからも、めちゃくちゃ困っている。

カンファレンスなど、「みんな」の中で進む話し合いは

自分の入る会話ではない、と思わずにはいられない。

話に入って、お前には聞いてないと思われたらどうしよう、

みんなはなぜ、当たり前のように自分に発言権があると思って生きてるんだろう、

なんて考えてたら、だいたい終わる。

 

子ども時代に怒られた言葉は、子ども時代のこと。

ウジウジしてないで大人社会に適応して生きろよ、と自分でも思うのだけど

そしたら、子ども時代に傷ついた心が報われない気がして

ずっと、言われた言葉を抱きしめて、傷口に塩を揉みこみながら生きている。

 

ちなみに、名前を呼ばれないと自分に話しているのか分からない、は

アスペルガーの特徴でもあるみたい。